しろいろの街の、その骨の体温の
見渡す限り、真っ白な色で統一されたニュータウン。ニュータウンは絶えず開発を進めるための工事の音で騒がしかった。子どもたちが見つけた遊び場も絶えず変わり、小学校には学期が変わるごとに、5〜10人以上の子どもたちが転向してきた。そんな街に住む小学4年生の少女、結佳は、「学校」と「この街」に息苦しさを感じていた。
大学の後輩に勧められて購入して読んだ。小学生・中学生女子が向き合う、残酷な子供同士の世界が鮮烈に表現されている。
映画で言うと、以前視聴した「リリイ・シュシュのすべて」に似た雰囲気を持っていた。
リリイ・シュシュに比べて、この話にはバイオレンスな描写や展開は少なく、何処の学校にでもありふれているであろう「ランク付け」や「いじめ」の適切な描写がある。酷く生々しい雰囲気に加え、思春期の男女の変化や、性への目覚めも鮮明に描写されている。
こういう本を読むと、つくづく日本語とは現実的な表現をするのに適した言語だと感じる。今まで読んだ本も、心に響いた作品はどれも心が垂れ込めるように重くなるような作品ばかりだったような気がする。
グロテスクで生々しい表現を様々な単語と、ひらがな・カタカナ・漢字で使い分けることで、作者の言いたいことを手に取るように表現できる。ある意味では、熱を感じられるような情熱的な表現や抽象的な内容には適していないのかもしれない。それだけ、ボキャブラリーに富んだ言語だ。そこから発展して考えれば、日本映画界・演劇界が現実的で生々しいアンダーグランドな描写を好むのはこれらの現実的な描写に富んだ小説を主体にしているから、当然の摂理とも言えるのかもしれない。
追記は主観的な感想
本を読みながら私の小学時代と中学時代を思い返していたけれど、この本に描かれる小学生女子の日常は、驚くほど自分には分からなくて、「女子ってこんなに大変だったんだな」と思った この本が世の中の小学生女子を忠実に描き出しているとしたら、私はなんにも知らないまま6年間過ごしすぎたんだなと改めて感じた。
好きな女子に話を合わせたり、おそろいのものを買ったり、交換ノートで友情を保ったり、男の子と話すのは億劫とか、そういう風景が小学生のときから存在してたなんて私はこの本を読むまでほとんど知らなかった。中学生になって、皆急に変化したのかと思っていた。
中学編は、何となく自分の記憶と同じだった気がする。ただ、私は私立に進学したために、知っている顔は無かった。それはある意味助かったかもしれない。この本の主人公は、小学生の時仲がよかった2人が、1人はカーストの上位に、1人は最下位に、自分は下から2番目になってしまうという、残酷な描写があったのでとてもとても怖かった。
私の場合、最下位だったので刺さるような言葉の暴力と、無干渉の暴力が同時に押し寄せた。でもその頃の私には、明確なヒエラルキーがその場に存在していることなんて全然知らなかった。知ったのはいじめが終わった後だった。
その後、言いたいことも言えず、上に媚び、自分よりも下の人間には声をかけることも助けの手を差し伸べることも出来ない自分は4年間自分に嘘をつき、見栄で周囲の人間を傷つけ続けた。
私はそんなあの頃の自分がいちばん今でも嫌い。だから、私は最後に主人公が全てを捨て、言いたいことを人にハッキリと自分の口で表現する姿が、この本を手に取りたくなる人が何を求めていたかを作者がしっかりと汲み取っているように感じた。
私はあの頃最後まで口では表現できなかったから、それを絵にしたけれど、今だったらもっと行動に起こしていたのにって思う。なので、この先の人生はそういうことは二度としないだろうなと思います。