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Reviews

What I've seen, read, played.

FANTASIA

http://rpo.co.uk/image.php?iid=2588

ディズニーが1940年に公開した、オーケストラから想像されたビジョンをいくつかの項目に分けてナレーション込でコンサートのように展開する。

全体:☆☆☆☆☆

映像:☆☆☆☆

この作品は私にとって、非常に興味深いものだったので全体的にちゃんと思ったことを書きたいと思う。長くなるので、続きに書きます。

 


まず前提として、音からイメージを抽出しビジュアルを想像する、というのは私が幼い頃からやってきた動作なので、全体にこの作品に対し共感のようなものを覚える。
その音の時はそういうイメージが合うよね、みたいな感じで、作った側の意図を感覚的に理解できるという意味の共感。
加えて、クラシック音楽が大好きな私としては、私にとって非常に思い入れのあるクラシック音楽ばかりで、今まで何度も何度も聞いてきた曲ばかりなので、その経験値ならではに感じることが沢山あった。

個人的に完成度が高いと思ったのは

魔法使いの弟子

禿山の一夜-アベマリア

の2つ。これは未だにディズニーのショーやパレードでも多用されていることで分かる通りの事実だと思う。
次に面白いと感じたのは、

田園交響曲

時の踊り

春の祭典

トッカータとフーガ・くるみ割り人形に関しては実験的な試みを感じることは出来たが面白いとは思えなかった。

私が一番面白いと感じた2つの作品に共通するのは、「ストーリーをなぞっている」という部分に起因すると思う。

魔法使いの弟子は、もともとある小説を音楽化されている。禿山の一夜も、1つのストーリーの一場面を想像して作曲されたもの。つまり、作曲者にもそのビジュアルを聞く側の脳内で想像できるようにという意図も少なからず存在している。

ディズニーが得意とする作風は常に、元々ある物語を曲解・独自化していくというものなので、ストーリーを感じやすい音楽からビジュアルを自分のものにしていく作業はウォルト・ディズニーにとってもやりやすい形だからこそ輝いた作品となり得たのだろう。

田園交響曲・時の踊り・春の祭典に関しては、その曲解を難しいところに陥れていき過ぎたというイメージを持つ。世界観ストーリーに関して文句があるのではなく、私個人がその音楽について知りすぎているから、曲とビジュアルに誤差が生じてしまうのが原因かなあと思う。でも田園交響曲春の祭典に関しては、同じようなテーマを持った部分のある既存のストーリー・歴史を重ね合わせることで分かりやすくしていこうという意図が見える。これはウォルト・ディズニーが亡くなった後のディズニー作品にも受け継がれていることのように感じている。

対照的に、時の踊りを好印象に感じたのは、面白いとか笑えるだとかそういう単純なポイントに全力でビジュアルを振っている部分。これは意味だとか、そういうものを放棄して違う場所に全力で比重を置くという意図が明確なことに清々しさを感じる。

田園交響曲春の祭典の間では、個人的には評価に大きな差がある。それは田園交響曲は楽曲のすべてを利用しているのに対し、春の祭典は要所要所を切り貼りして利用しているだけなので私はそのことに対して好印象を持てない。音楽を主体とした映像なのであれば、あまり切り貼りをしてほしくないと感じてしまう。しかも、一番の盛り上がりであるラストの生贄の踊りの部分がまるまるカットされているのは春の祭典大好きな私としては非常にがっかりした。春の祭典は生贄の踊りのために他の部分が存在していると言っても過言ではないのに・・・何もわかってない・・・と絶望するレベル。


トッカータとフーガは、イコライザーとしての視覚アートとしての価値しか感じなかった。アニメーション技術が出来た当初のイコライザー的作品を授業で観たのを思い出した。抽象表現というものがテーマだったようだが、ディズニーの持つ力はあくまでも具象にあると思う。逆にディズニーが抽象的音楽をどこまで具象に持っていけるかというのを見てみたかった。
くるみ割り人形は、チャイコフスキーの天才的作曲能力+お話の有名さに振り回されてしまったなという印象。

常々思っているのが、チャイコフスキーは現代のジョン・ウィリアムズ的存在だったのだろうということだ。チャイコフスキーの想像を掻き立てる作曲能力と耳に残るフレーズをつくる能力は、同年代の作曲家たちと比べても圧倒的な能力を持っていると思う。
もし現代にチャイコフスキーが生まれたなら、最強の映画音楽作曲家となっていたことだろうと思う。

そんな彼がくるみ割り人形の為に作曲した曲は、どう頑張ってもくるみ割り人形になってしまう。ビジュアルを一生懸命別のものにしようという努力を感じたけれど、どうしても似通った部分に着地している苦しさも垣間見えたし、それならば全力でくるみ割り人形のアニメを作るほうが素敵だったのではというのが素直な感想。

 

しかし全体的に見て、こんな試験的で、現代的なプロジェクトを1つの長編アニメーション映画として1940年に完成させているという事実が、恐ろしいほど先を行ったことをしていたのだなと改めて感心させられた。何よりも重要なのが、この作品よりも前に作られたのが白雪姫とピノキオしか無いということ。この実験が、その後のディズニー作品の原石を多く生み出したのだろうということは、作品を見ればその片鱗を嫌というほど感じた。何度も繰り返しているけど、これをこの年代にやろうと思った事自体がものすごくすごいことだと思った。